未来はいつでも懐かしい 竹内 栖鳳「アレ夕立に」考
「東の大観・西の栖鳳」と称された日本画家・竹内 栖鳳(1864-1942)は、明治から昭和に至るまで京都画壇の中心にあり続け、近代京都の日本画界へ最も大きな影響を与えました。
栖鳳は明治22(1889)年から約1年間高島屋意匠部に所属し、その後は相談役として高島屋の染織作品製作に携わります。栖鳳が監修し、西洋と日本の表現の融合によって製作された染織作品は、ヨーロッパでも高い評価を博します。
その後、明治33(1900)年のパリ万国博覧会視察のために渡欧した栖鳳は、帰国後、改めて日本絵画の「写意」に西洋の「形態把握」(実物観察)を組み合わせることで、その後、日本美術のあるべき方向の一つを示しています。
本展では、大正期に入り竹内栖鳳の重要な仕事となった人物表現のうち、特に人気を博した作品『アレ夕立に』(高島屋史料館蔵)を題材に、現代の美術家12名が独自の解釈で自身の作品として再構築した作品を発表します。
清元「月花茲友鳥」(山姥)の「あれ夕立にぬれしのぶ」に題材を得たと伝わる当作品は、「舞妓が舞う瞬間の美」を描いたと栖鳳は語っています。西洋の実物観察の重要性と日本の伝統的な写意が結実された作品と言える「アレ夕立に」。竹内 栖鳳生誕160周年にあたる本年、過去から現在へと時空を越え、あらゆる表現手法により現代の表現者たちが蘇らせます。
【出品作家有志によるギャラリートーク】
日時:4月21日(日) 午後3時より
場所:7階 美術画廊
高島屋史料館の高井多佳子氏と元高島屋美術部顧問の中澤一雄氏とともに、実際に作品を描かれた美術家が登壇いたします。
※4月17日(水)~22日(月)の期間中、当展覧会に出品される作品のうち一部、抽選販売とさせていただく作品がございます。
※詳細は売場係員におたずねください。
1909(明治42)年11月から12月にかけて、高島屋は京都、大阪、東京の各店で「現代名家は百幅画会」を開催しました。当時の著名画家100人と同一サイズ〔絹本尺五(幅1尺5寸=約45㎝)に統一〕で新作画を依頼し、寄せられた100作を同じ表装で100幅の掛軸に仕立て、一堂に展観した高島屋初の展覧会でした。
東西の100名家の新作を揃え、さらに“番外”として竹内 栖鳳≪アレ夕立に≫(第3回文展出品)を会場内の入口に特別陳列し、大いに話題を集めました。本作品は第3回〔1909(明治42)年10月〕文部省美術展覧会(竹内 栖鳳は文展開設とともに審査員となり、20代半ばの頃は、高島屋の常勤画工として輸出用染織品の下絵制作に携わっていました。)に出品され、開催早々大評判となり、新聞各紙には称賛と批判、さまざまな作品批評が続々と掲載されました。東京・大阪で見ることができる高島屋の百幅画会へ、多くの人が足を運んだものと考えられます。
本作は舞妓が清元節の「山姥」を舞う姿。栖鳳は「舞妓が舞う瞬間の美」を描いた、と栖鳳は語っています。清元節「山姥」の一節を舞う舞妓は12歳の少女(あさこ)でした。
第3回文展開催中にモデルの少女あさこが儚く世を去ってしまったことも報じられて、ますます注目を集めました。また制作にあたり、高島屋が着物や帯を提供しましたが、どの帯も栖鳳の考えにあわず、自ら水墨柄の帯を創作して描いたと言われています。栖鳳が《アレ夕立に》を制作中、新聞のインタビューに応じた記事があります。
栖鳳自身が「この舞妓の身受人はもう決まっている」と語っていることから、既に完成前から高島屋へ譲ることが決まっていたようです。
竹内 栖鳳(たけうち・せいほう)1864-1942
京都に生まれる。「東の大観・西の栖鳳」と称された日本画家・竹内 栖鳳は、明治から昭和まで京都画壇の中心であり続け、近代京都の日本画界に最も大きな影響を与えた。
画壇革新を目指した明治期には、旧習を脱却した新たな日本画表現を模索し、西洋に渡る。文展開設当初から活躍し、大正期には帝室技芸員、帝国芸術院会員となる。西洋画を含め諸派の表現を融合し京都日本画の近代化を牽引するとともに、写生にもとづく自然への視点、省筆の鮮やかさに独自の境地を拓いた。京都市立絵画専門学校、画塾竹杖会で多数の俊英を育て、晩年は神奈川県湯河原の温泉旅館天野屋に逗留した。第1回文化勲章受章。
(50音順・敬称略):12名
池永 康晟・入江 明日香・石黒 賢一郎・木村 了子・河野 桂一郎・田村 吉康・中島 健太・古吉 弘・松浦 浩之・ミヤケ マイ・森村 泰昌・森本 純
<作品一例>
お問い合わせ:横浜高島屋(代表)045-311-5111