2024年11月22日

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【連載】富裕層ビジネスの世界 富裕層が大ダメージを受けたクレディ「AT1債」の行方

「私に勧めてきたプライベートバンカーや金融機関、引いてはスイスの規制当局を訴えられないか、弁護士と協議している」

都内で数百億円の金融資産を抱える富裕層の男性は、憤まんやるかたない表情を浮かべながらこう語る。

この富裕層が怒っているのは、今年3月19日にスイス政府がスイスの大手金融機関クレディ・スイスが発行していた仕組み債の「AT1債」約160億スイスフラン(約2兆3000億円)の価値をゼロにすると発表したからだ。

富裕層はプライベートバンカーや大手金融機関などから「利回りがいいし、そこまでリスキーではない」と勧められて数千万円分のAT1債を購入。それが一夜にして紙くずになってしまったのだから怒るのも無理はない。

「契約時の書面にリスクについて書いてあると言うが、しっかりとした説明は受けていない」と富裕層の怒りはおさまらない。

この富裕層だけではない。箱根駅伝の名将として知られる青山学院大学陸上部の原晋監督が、日本の証券会社から購入したクレディのAT1債がすべて「紙くず」になったと明かした。企業でも、ゲーム開発を手がけるコーエーテクモホールディングスが2023年3月期決算で41億円の損失を計上。4月下旬の決算会見で、資産運用を主導していた襟川恵子会長が、自身の投資歴の中で「最大の汚点だ」と述べている。

AT1債についていた独自条項が引き金

このようにクレディのAT1債では、世界中の富裕層が大きな損失を被っている。中でもアジアの富裕者層は欧米の金融機関を通じて積極的に購入しており、被害額も大きかったという。というのも、欧米と違ってアジアでは、プライベートバンカーや金融機関が個別の証券を強く推奨する傾向があったからだ。そのため巨額の損失を負ってしまった日本の富裕層も少なくないようだ。

なぜこうした事態になってしまったのか。事の発端は今年3月、クレディが経営不安に陥ったことだ。クレディ自体は金融不安を抑え込むためにスイス政府が主導してスイスの金融機関最王手のUBSに救済買収させたが、その際、AT1債の扱いが焦点となった。

そもそも大手金融機関が発行するAT1債は、普通社債よりも金利が高い一方でリスクは低い安全商品と考えられ、低金利の環境下で積極的に購入されてきた。クレディも22年に10%近い年利で発行、多くの富裕層に販売していた。だが、実はクレディのAT1債には「政府から経営支援を受けた場合には価値をゼロにする」との独自条項があり、今回、それが適用されてしまったのだ。

一方で、クレディの既存株主にはUBSの株式が割り当てられ全損は免れている。つまり株式は無価値とならない中で、債券であるAT1債が無価値になるという異例の決定が行われ、株式と債券の弁済順位が逆転。弁済順位は必ず守られるという神話が崩れたのだ。

もっともこんな決定をしたのはスイスだけ。欧州中央銀行(ECB)や香港金融当局などその他の諸外国の当局は、弁済順位でAT1債の投資家は株主よりも優先されることを改めて説明し、火消しに回っている。

無価値化後に先駆けて発行を始めた邦銀

クレディのAT1債の無価値化によって、世界のAT1債は大きな打撃を受け、新規発行がしばらくは難しいと考えられていた。しかし、そうした中で果敢に新規発行したのが三井住友フィナンシャルグループ(FG)だ。

三井住友FGは4月19日、計1400億円のAT1債を発行。関東財務局に提出した書類によると、5年2ヵ月後に償還が可能になる債券(当初の表面利率1.879%)を890億円、10年2ヵ月後に償還が可能になる債券(同2.1805%)を510億円発行する。基準となる国債に対するスプレッド(上乗せ金利)は1.71%とした。

ブルームバーグのデータによると、G-SIBs(国際金融システムで重要な金融機関)によるAT1債の発行は、3月上旬の英バークレイズが最後だったため、クレディ買収決定後、大手銀行による初めての事例だ。

三菱UFJフィナンシャル・グループ(FG)も続いた。発行から5年と10年でそれぞれ償還が可能な2種類で、円建てのAT1債を3300億円発行する方針。投資家の需要が高まっており、当初検討していた1000億円規模から積み増しした。国債に対するスプレッドは期間に応じ1.65~1.66%となる。

両行の動きはAT1債の無価値化から2ヵ月半が経過し、高まっていた市場の警戒感が落ち着きを取り戻してきたからだ。もちろん銀行にとっては比較的低いコストで資本増強ができる魅力的なツールということもあるが、邦銀が先駆けて発行に乗り出したのは注目すべきことだ。

とはいえ冒頭で述べたように、AT1債を保有していた富裕層が受けた被害の救済はまだ何も始まっていない。今後、世界の富裕層たちがどのように動くかによって、日本の富裕層たちも行動を起こす可能性がある。

 

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